「仁王像」
寺の境内入り口を固める、力強い「仁王像(金剛力士像)」。観音正寺には山門などがなく、仁王像は、露天に立っている。
「参道」
西国巡礼の屈指の難所といわれ、参拝者を大いに悩ませた。表参道は、1200段の石段が続く急坂。表参道駐車場からは、440段の石段を上れば、境内にたどり着くことができる。裏参道側の駐車場からだと、8分程度歩くのみである。
「本堂(観音堂)」
琵琶湖の東、標高433メートルの「繖山(きぬがささん)」の山頂近くに建つ本堂。平成5年(1993年)に焼失、平成16年(2004年)に再建された。インドの白檀(23トン)で造られた本尊の「千手千眼観世音菩薩像」が安置されている。
「本堂・外陣」
推古天皇13年(605年)、聖徳太子がこの地を訪れたとき、琵琶湖から現れた「人魚」に出会った。その人魚の前世は漁師であり、漁師の願いにより、千手観音像を刻んで祀ったのが、寺の始まりと云われている。現在の本尊を刻んだインドの「白檀(びゃくだん=香木)」の原木が、(写真手前)展示されている。
「本堂横の石積み」
本堂の横に積み上げられた石の上には、「観音像」や「魚籃観音像」などが、点々と安置されている。
「護摩堂」
「護摩(ごま)」とは、護摩壇に火を点じて、護摩木や供養物を投じ、祈願する修法である。この護摩堂は、繖峯修験道の根本道場になっていた。
「奥の院」
昔、聖徳太子は、巨岩の岩で舞う天人を見て、その岩を「天楽石」と名付けた。現在は、「奥の院」として巨木の中に大きな岩が点在している。聖徳太子が彫ったとされる「磨崖仏(まがいぶつ)」がある。倒木や地滑りの危険があるため、現在は、立ち入り禁止になっている。
「濡佛(ぬれぶつ)」
「濡佛(銅造釈迦如来坐像)」は、江戸時代から安置されていたが、第二次世界大戦時に供出された。昭和58年(1983年)平和を願って再建されたものである。
「一願地蔵(北向地蔵)」
堂内に書かれている地蔵尊の「真言」を7回唱えれば、悩みを取り除き、一願を叶えてくれるという、地蔵尊である。北向き地蔵尊は、人々に寄り添い、願いや悩みを聞き受けてくれると云われている。北向き地蔵尊は少なく、全国に400体ほどしかない。
「聖徳太子像」
聖徳太子像の後方には、万葉歌にも詠まれた「蒲生野(がもうの=滋賀県中南部)」を眼下に、近江富士とよばれる「三上山」(写真右奥)が展望できる。
西国札所第32番 繖山・観音正寺を動画でご覧ください。
「繖山・観音正寺の御朱印」
「繖山・観音正寺」
西国札所第32番の「観音正寺(かんのんしょうじ)」は、近江國(おうみのくに)現在の滋賀県近江八幡市安土町石寺にある、天台宗(単立)の寺院である。山号は「繖山(きぬがささん)」、本尊は「千手千眼観世音菩薩」である。この寺は、琵琶湖の東岸、標高433メートルの「繖山(きぬがさやま)」の山頂近くに位置している。推古天皇13年(605年)、聖徳太子がこの地を訪れたとき、琵琶湖から現れた「人魚」と出会った。その人魚の前世は漁師であり、殺生を業としていたために人魚に生まれ変わり苦しんでいたという。人魚の願いにより自ら千手観音像を刻んで、山頂近くに堂塔を建立して観音様を祀ったのが、この寺の始まりと伝えられている。寺には、その「人魚のミイラ」と称するものが伝えられていたが、平成5年(1993年)の火災により本堂が全焼。本尊・「千手観音立像」も「人魚のミイラ」も火中に消えてしまった。数々の困難を乗り越え、平成16年(2004年)本堂が再建された。インドの「白檀(びゃくだん=香木)」を使用して、本尊・千手千眼観世音菩薩坐像も同時に開眼した。
撮影日: 2019年9月5日(動画:2023年8月30日)
住所:滋賀県近江八幡市安土町石寺2