「船が一の関を通過」
江戸から物資を積んだ船が、上げ潮にのって芝川をさかのぼり通船堀に入り、一関を通過して二の関に向かう。
「一関の角落(かくおとし)」
一の関の関枠に「角落」と呼ばれる板を入れ、関の上流の水位を上げる。角落板を10枚ほど入れると水位は船が二の関を通過するのに十分なほど上がる。
「見沼通船、ひらたぶね」
見沼通船に使われた船は「ひらたぶね」と呼ばれる底の平らな長さ11メートル、幅2メートル程のもので約60kgの米俵100〜150俵積みの小型船であった。
「見沼通船堀の仕組み」
見沼代用水路と芝川の間の、3メートルの水位差を調整するために、東西とも二ヶ所ずつの閘門が設けられた。
「見沼通船舟歌保存会」
見沼通船に携わった船頭が、江戸との往復の際、船の操作に合わせて口ずさんだ作業歌である。千住節と呼ばれ、現在唄われている歌は、相撲甚句の調子に再現したものである。
「水神社」
八丁河岸周辺には、河川輸送に携わる人達が住んでおり、水神社は、そのような仕事につく人達が、水難防止を祈願して祀ったものである。
「鈴木家住宅」
鈴木家は高田家とともに見沼通船の差配役に任じられ、文政年間頃から八丁で事務をとるようになった。現在の鈴木家住宅はこの頃に建てられたものと考えられ、通船堀と合わせて国指定史跡に指定された。
「鈴木家住宅付属建物」
鈴木家の付属建物は米蔵と納屋があり、大正12年の関東大震災で大破したが、その後修復された。しかし大幅な改変はなく、建設当時の姿を保っている。
「昔の農器具、唐箕(とうみ)」
鈴木家の納屋に保存されている昔の農器具「唐箕」上にある受け口から脱穀した籾を流し込み、わきにあるハンドルを回すと内部の羽が回転して風が起きる。ワラくずが吹き飛ばされ、籾だけが下の口から出てくる。
見沼通船堀とパナマ運河
見沼通船堀は、さいたま市の南部に位置している。1731年、東西の見沼代用水路と芝川を結んで作られ、東西二ヶ所の関(閘門)を設けた。見沼代用水路と芝川との3メートルの水位差を調節して船を通すという、我が国有数の古さの閘門(こうもん)式運河である。このような形態の運河で、世界的有名なのが太平洋とカリブ海を結ぶ「パナマ運河」がある。パナマ運河は大正時代1914年に建造され規模が非常に大きいものである。見沼通船堀は、江戸時代中期に建造、規模は小さいがパナマ運河より180年以上も歴史が古い。
「見沼代用水路とは??」
かつて、さいたま市東部には、縄文時代の海進によって出来た「見沼」という広大な沼があった。江戸時代初期の「見沼」は“溜井”にその姿をかえて農業用水源とされていた。八代将軍徳川吉宗は、年貢米増収の手段として、この「見沼」を“田んぼ”に変えた。この見沼田んぼへの新たな水源として利根川の右岸(現、行田市)から60kmにも及ぶ用水を引いた。この用水は、以前の「見沼用水」に変わるものということで「見沼代用水路」と呼ばれるようになった。
撮影日: 2013年8月21日
撮影場所:見沼通船堀
住所:埼玉県さいたま市緑区大字大間木