「埼玉県名発祥之碑」
マップの撮影場所 ①
「さきたま古墳公園」(埼玉県行田市)の古墳群の一角に建立されている石碑である。「埼玉」が県の名称とされたのは、当初の県の管理区域の中で、最も広いのが、埼玉郡であったことによる。と記されている。
「前玉神社(さきたまじんじゃ)」
マップの撮影場所 ②
「前玉神社」は、埼玉県名の発祥の地、行田市の「さきたま古墳群」に接する「浅間塚」と呼ばれる古墳上に建てられている。「前玉(さきたま)」が転じて「埼玉(さきたま)」へと漢字が変化し、現在の「埼玉県」になったと云われている。「前玉神社」は、埼玉県名の発祥となった神社である。
「さきたま古墳公園」
マップの撮影場所 ③
「さきたま古墳公園」は、「埼玉県」の地名発祥の地で、埼玉県行田市大字埼玉(さきたま)にある。5世紀〜7世紀までに次々と作られたと思われる古墳群が存在している。
「鉄砲山古墳の石碑」
マップの撮影場所 ④
さきたま古墳群(埼玉県行田市)のひとつ「鉄砲山古墳」に、密やかに建っている石碑がある。石碑には「史蹟埼玉村古墳群」と刻まれている。この地は、「埼玉(さきたま)」の地名の語源となった武蔵國時代の埼玉郡「埼玉村(さきたまむら)」であった。
「埼玉(さきたま)交差点」
マップの撮影場所 ⑤
「埼玉県」という地名発祥の地、埼玉県行田市大字埼玉(さきたま)には、「埼玉(さきたま)」の交差点もある。
「埼玉県庁舎(さいたま市浦和区)」
マップの撮影場所 ⑥
明治4年(1871年)埼玉県が誕生して、岩槻町(現・さいたま市岩槻区)に県庁所在地を置くことに内定していたが、県庁舎としての大きな建物がなかった。浦和には、浦和県時代の大きな庁舎があったので「仮」に、県庁舎(県庁)を置くことになった。それがそのまま現在に至っている。
現在の埼玉県名が成立するまで!?
日本は江戸時代まで、各地域に「藩」が置かれ、各藩の大名が地域を支配していた。日本に「県」という概念が登場したのは、明治時代のことである。慶応3年(1867年)約240年間にわたって続いた江戸幕府に代わり、天皇を頂点とした新政府が樹立した。新政府は、中央集権化を図るため、慶応4年(1868年)「府藩県三治制」を敷いた。これにより全国を「府」、「藩」、「県」の3つに分けた。「府」とは、「江戸府」、「京都府」、「大阪府」、など主要地に10府置かれた。現・埼玉県域には、秩父郡を中心にした「岩鼻県(いわはなけん)」、入間郡、高麗郡を中心とした「韮山県(にらやまけん)」の新たな「県」が置かれた。後に「大宮県」が置かれたが、浦和に移され「浦和県」となった。しかし、江戸の防衛隊と言われた「武蔵三藩」の「川越藩」、「忍藩(おしはん)」、「岩槻藩」などの旧大名領は、そのまま存続された。明治4年(1871年)世に知られる「廃藩置県」が断行され「藩」は「県」という名に変えられ、これにより、現・埼玉県には21もの県が置かれた。この「廃藩置県」は暫定的な処置で半年後には、それまであった「浦和県」に加えて「岩槻県」、「忍県」を統合して「埼玉県」とした。そのとき、同時に「川越県」を「入間県」とした。明治9年(1876年)「入間県」が「埼玉県」と合併して今日の「埼玉県」が成立したのである。
ここに初めて「埼玉県」という県名が誕生した。なぜ「埼玉県」という県名になったのかというと、「岩槻県」と「忍県」は、「旧・埼玉郡」の所属であって、県庁を「岩槻町」に置く予定だったから「郡」を「県」に変えて「埼玉県」としたということである。しかし、岩槻町(現・さいたま市岩槻区)には、県庁舎として使えるような大きな建物がなかった。浦和には、浦和県時代に使っていた庁舎があったので「仮」に浦和に県庁を置くことになったのが現在に至っている。「埼玉」の地名は、行田市の「さきたま古墳群」周辺の「埼玉村(さきたまむら)」(現・行田市大字埼玉)と言われている。この地に「前玉神社(さきたまじんじゃ)」が鎮座している。この神社の「前玉(さきたま)」が転じて「埼玉(さきたま=当て字)」となったと云われている。この「前玉神社」が最初に祀られたのは、古墳時代の西暦400年代後半〜500年代前半とされている。実に千数百年の歴史を持つ神社である。つまり、「埼玉(さきたま)」の由来となった「前玉(さきたま)」は、千数百年前に誕生していたことになる。「埼玉村(さきたまむら)」が「武蔵國多摩郡」の奥に位置することから「前多摩(さきたま)」、「先多摩(さきたま)」とも呼ばれ、これが転じて「埼玉(さきたま)」となったと云う説もある。「さきたま」が「さいたま」となった原因は、「イ音便(いおんびん)」と言われている。語尾の「き」が「い」になる現象である。
撮影日: 2020年4月25日
撮影場所:さきたま古墳公園付近