岩槻黒奴を先導に鷹狩り行列がスタートした。行列には鷹匠(たかじょう)や、一般公募の参加者ら約120人が参加。
腕に鷹をとまらせた鷹匠が行進(約20羽)。
「鷹匠(たかじょう)」とは、鷹の訓練調教師。
練り歩きの途中で、2人の鷹匠間で鷹を行き来させる「放鷹術(ほうようじゅつ)」も披露された。
放鷹術(ほうようじゅつ)とは、鷹狩りの技術(鷹を使って獲物を捕ること)であるが、鷹狩り行列では、2人の鷹匠間の腕を行き来する「渡り」と呼ばれる技が披露された。
将軍様の前列に、組頭を含め「徒侍(かちざむらい)」と「槍持」が行進した。
「徒侍」は、将軍の外出時に徒歩で身辺警護を努めた下級武士である。
慶長14年(1609年)3月、岩槻城が火災で焼失。同年12月に鷹狩りが行われ、岩槻城の復興を見に徳川家康公は岩槻を訪れていた。
「側衆(そばしゅう)」に続き一の姫が登場。
「側衆」は、将軍のお側に常に仕え、御用の取次などを行う、いわば秘書の役職である。
徳川家康には、男子11人、女子5人の子供がいた。男子についてはよく知られてるものの、5人の姫君についてはほとんど知られていない。四女の「松姫」と五女の「市姫」の2人は、幼くして逝去した。
「やまぶき道灌太鼓」に続き二の姫が登場。
「やまぶき道灌太鼓」は、岩槻の歴史・伝統をモチーフに組太鼓や振り付けを創作し、「岩槻まつり」や「やまぶきまつり」などで活動している。
徳川家康の5人の姫君の内、2人は幼くして逝去したが、長女「亀姫」、次女「督姫」、三女「振姫」の3人は健康に育ち無事成人し、それぞれ波乱の生涯を送った。
「侍女(じじょ)」による薙刀(なぎなた)の演舞を披露。
「侍女」は、偉い方の屋敷に仕える婦女子たちのことである。薙刀は、江戸時代に「女性の武器」として使用された。女性は男性より非力のため、遠心力を利用して相手を殺傷する武器である。
日光御成道(現、本町3丁目)で、将軍の鷹狩り行列と、将軍を出迎える岩槻藩が対面式を行い、セリフ入りのパフォーマンスを披露した。
将軍様に岩槻黒奴の奴振りを披露した。江戸時代から日光の赤奴・甲府の白奴、そして岩槻の黒奴が日本の三奴とされていた。
岩槻駅前「クレセントモール」では、ホテル13階からの放鷹術(ほうようじゅつ)や鷹とのふれあいコーナーが開催された。
岩槻駅前「クレセントモール」では、WATSU専門店会主催による「ストリートマルシェin鷹狩り行列」が開催され、音楽演奏や和太鼓演奏、キッズダンス、よさこい踊りなどが披露された。
城下町岩槻鷹狩り行列を動画でご覧ください。
徳川家康公の鷹狩りを披露‼
江戸幕府初代将軍「徳川家康」は鷹狩りを好んでいた。この「城下町岩槻鷹狩り行列」は江戸時代、徳川家康が鷹狩りへ行く途中、何度も岩槻に立ち寄ったことにちなんだイベントである。行列には腕に鷹をとまらせた鷹匠(たかじょう)や将軍などに扮した一般参加者ら、約120人が参加。岩槻駅東口周辺(日光御成道)の約1キロメートルを練り歩き、途中で2人の鷹匠間を鷹が行き来する「放鷹術(ほうようじゅつ)」も披露された。出迎える側の岩槻藩主「高力忠房(こうりきただふさ)」は、将軍の鷹狩り行列と途中で合流、黒奴の奴振りの披露、将軍や藩主、目付、若年寄りなどのセリフ入りのパフォーマンス、侍女(じじょ)の薙刀(なぎなた)演舞、小十人組の演舞などが披露され、大勢の観客で賑わった。
さいたま市岩槻区は、埼玉県さいたま市を構成する10区のうちの一つで、さいたま市で最も面積が広い。岩槻の歴史は、長禄元年(1457年)太田道灌によって岩付城(岩槻城)が築城された。戦国時代には道灌の曾孫・太田資正が、兄資時の跡を継いで武蔵岩槻城主となった。平成16年(2004年)さいたま市との合併協定の調印式が行われ、平成17年(2005年)さいたま市に編入し、「さいたま市岩槻区」となった。
撮影日: 2023年11月3日
撮影場所:八雲神社(日光御成道)〜岩槻小学校
住所:さいたま市岩槻区本町1丁目〜5丁目