「竹生島(ちくぶしま)」
琵琶湖の北部に浮かぶ「竹生島」。周囲2キロメートル、標高約200メートルの断崖絶壁に、本尊・「千手千眼観音菩薩像」が鎮座している。島内には寺院だけで民家は一軒もない。
「唐門と観音堂」
この門は、京都の東山にあった豊臣秀吉の霊廟(れいびょう=人の霊を祀っている建物)の唐門(極楽門)を、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼によって移築された。極彩色の彫刻と飾金具で飾った豪華な門である。唐門の後方が観音堂。
「観音堂・外陣(げじん)」
秘仏本尊・千手千眼観世音菩薩が安置されている。開扉(かいひ)は60年に一度である。柱などの木部は総漆塗りで(アクリル板で保護されている。)、天井には極彩色で菊や桐などの模様が描かれている。
「舟廊下」
「宝厳寺観音堂」から「都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)」本殿を結ぶ屋根付きの廊下である。豊臣秀吉の座船の用材を用いて作られたところから、その名がついた。
「都久夫須麻神社(本殿)」
「都久夫須麻(つくぶすま)神社」と「宝厳寺」は神仏習合であった。明治の神仏分離により両者は、分離された。慶長7年(1602年)豊臣秀頼により再建されたものである。
「三重塔」
江戸時代初期に焼失したと言われている「三重塔」を、約350年ぶりに、平成12年(2000年)に再建したものである。
「もちの木」
この木は、慶長7年(1602年)、豊臣秀頼の命を受け、「片桐且元(かたぎりかつもと=秀頼の後見役)」が唐門、観音堂を移築したときに、記念に植えたものである。「もちの木」は、御神木として神社の境内に植えられる。
「本堂(弁財天堂)」
本尊の弁財天は、江ノ島、宮島と並ぶ「日本三弁財天」の一つである。弁財天は、七福神の中で、唯一の女神である。元はインド河(水)の神であったが、やがて音楽の神、言語の神となり日本に伝わった。琵琶湖の名前の由来は、弁財天が持っていた楽器(琵琶)が由来と云う説がある。
「五重石塔」
高さ約2.4メートル、鎌倉時代の作と云われている。「地」「水」「火」「風」「空」の五大をかたどった「五層の仏塔」である。国の重要文化財に指定されている。
「竹生島竜神拝所」
土器(かわらけ)に願い事を書き、湖面に突き出した宮崎鳥居へ投げて、土器(かわらけ)が鳥居をくぐると、願い事が叶えられると云われている。
西国札所第30番 金山・宝厳寺を動画でご覧ください。
「巌金山・宝厳寺の御朱印」
「巌金山・宝厳寺」
西国札所第30番の「宝厳寺(ほうごんじ)」は、近江國(おうみのくに)現在の滋賀県長浜市早崎町・竹生島(ちくぶしま)にある、真言宗豊山派の寺院である。山号は「巌金山(がんこんさん)」、本尊は「千手千眼観世音菩薩」である。この寺は、琵琶湖の北部に浮かぶ、周囲約2キロメートル、標高約200メートル、断崖に囲まれた「竹生島」に鎮座している。島内には、宝厳寺と都久夫須麻(つくぶすま)神社だけで、民家は一軒もない。まさに、神と仏だけが祀られている聖域の島である。神亀元年(724年)「行基(ぎょうき=奈良時代の日本の僧)」が竹生島を訪れ、弁財天を祀る堂を建立し、弁財天を安置したのが始まりと云われてる。天平勝宝5年(753年)浅井値馬養(あざいのあたいうまかい)という人物が、千手千眼観音像を刻み、弁財天と一緒に安置したと云われている。永禄元年(1558年)に大火があったが、大火後、豊臣秀頼が唐門や観音堂などを再建した。明治以前は神仏習合の霊場として信仰されていた。その後、神仏分離令により廃寺が下されるが、多くの信者に守られ、本堂(現・観音堂)のみを神社に渡された。昭和17年(1942年)に、新たに本堂が再建され、宝厳寺の本尊として、再び仮安置だった弁財天が安置された。また、札所の本尊として、千手千眼観音像を祀っている。
撮影日: 2019年9月26日(動画:2023年9月27日)
住所:滋賀県長浜市早崎町1664-1